味覚を楽しみながら旅行ができるなど、
乗ること自体を目的にした「観光列車」が各地に登場していますが、
かつては、定期列車に食堂車やビュフェの設備があったことをご存知ですか。
新幹線の食堂車でウェイターとして勤務された、
帝国ホテルの柴沼宏志さんに話を伺いました。
―――「列車食堂」の営業開始は昭和28年、東京・大阪間を走る在来線特急「つばめ」だったそうですね。後発で帝国ホテルが参入した経緯をご存知の範囲で教えてください。
当時の国鉄総裁から帝国ホテルの犬丸徹三社長へ、強い参入要請があったそうです。国鉄という公共企業体として、戦前から食堂車を営業していた日本食堂に独占させ続けてもよいのかという、世論を考慮したようです。それに、サービス向上のためには競争原理を導入するほうがよいとの判断もあったのでしょう。そしてなぜ、帝国なのかというと、これは推測ですが、当時食堂車を利用するのは富裕層が中心であったことに関係があるかもしれません。また、ホテル側としても、日本を代表する優等列車である「つばめ」や「はと」の列車食堂を引き受けることは、ホテルの宣伝になると考え、「たとえ赤字であっても安いもの」との考えがあったとも聞きます。
―――その後、昭和39年に東海道新幹線が開業し、新幹線でも事業を継続されています。
新幹線開業により東海道本線の特急は廃止されますので、そのまま「移行」するのかという話になりますが、企業として列車食堂の事業に参入し続けるか否かの議論はあったようです。というのも、当時の開業区間である東京・新大阪間では、乗車時間が3~4時間であることやビジネス客が中心になることが予測されたため、国鉄は食堂車を無くしビュフェのみを設定すると決めていたのです。ただ、将来的に博多への延伸は確実であり、客単価は落ちるものの車内販売などでカバー可能という両面から、事業の場を新幹線へ「移行」することになりました。
そして、「移行」から10年後、博多まで延伸された昭和49年、食堂車が連結されることになりました。当時は、帝国ホテルの他に、都ホテル・日本食堂・ビュフェとうきょうの4社が運営していました。その後、国鉄は分割民営化されるなか、この4社体制は維持されましたが、弊社は平成4年に撤退しました。
―――新幹線開業後、しばらくはビュフェのみで営業されていたのですね。どのようなスタイルだったのですか?
今の人たちにはわからないですよね。簡単な調理設備がある厨房と、立食で飲食できるカウンターがありました。ただ、在来線よりも車体幅が大きいので、東海道新幹線に登場したビュフェには、窓側に椅子とテーブルが付いていましたね。提供する食事は、カレーライスなどさっと食べることのできるメニューでした。また、「車内調整」といって、ビュフェの厨房では、車内販売用のお弁当やサンドウィッチを作っていました。
―――4社で運営していたとのこと。割り当てはどのように決まっていたのですか?
新幹線開業後、昭和45年春までは、受け持ちが「編成(注)持ち」でした。のちの「ひかり○号」あるいは「こだま○号」に乗務するという「ダイヤ持ち」の受け持ち方ではなくて、編成ごとに受ける業者が決まっていたのです。つまり、その編成が動くときは、否応なしに帝国ホテルのチームが乗らなくてはならない。編成がどう運用されるかでチームの勤務計画が決まるわけで、明日乗務するのかしないのか、一度乗務に入るといつから休みに入るのかが分からない状態でした。結果として、東京・新大阪間を1往復半は当たり前、「ひどい時」には2往復して富士山を4回見たということも珍しくなかったようです。特に繁忙期などは、一旦車両基地に入った後でも、国鉄より「帝国さん持ちの編成が臨時で動きます。乗務お願いします。」となって、3連泊の乗務を終えたコックさんたちがタイムカードを押すところで捕まって戻されたり、女性社員がトイレに逃げ込んでしまい、その前で食堂チーフが説得するといったりした、笑うに笑えない光景が繰り広げられていました。「ダイヤ持ち」へと変更され、何時発のどの列車に乗務するのかが予め分かる形になって、初めて勤務計画が固定されました。労働組合としてはようやく労働条件を整える下地ができたという出来事でしたね。(編集部注)編成…営業運転するときの両数を連結した一つの列車のまとまり。それぞれを識別するために固有の番号が与えられる。
―――ホテルと新幹線車内とでは、業務上様々な面で勝手が違うと思うのですが?
何より大きな違いは、「動いている」ことです。事前準備がものをいいます。指定券の販売状況に応じて食材や車内販売の商品を充実させるとか、夏休みで子どもが多く乗るからノベルティ商品を少し多く積むといった準備はしておくのですが(編集部注:帝国ホテルオリジナル商品で2階建て新幹線が描かれた定規がありました)、予期せぬことも…。
岡山発東京行の始発便に乗務したときのことです。当時の取り決めで、食堂車では10時までモーニングメニューを提供することになっていました。この列車は、東京着が9時59分でしたので全区間朝食のみの提供、しかも朝食を食堂車で取る人はあまりいなかったため、結構「楽な」乗務と感じていました。それが、ある日、夏の高校野球で姫路の高校が第2試合に組まれていて、その応援のために姫路駅で大挙して乗車されてきたのです。そして、40人ほどが食堂車にいらして、一斉に洋朝食を注文した。行く先は甲子園ですから、下車は新大阪。当時でも、姫路・新大阪間は40分程度。その間に目玉焼きを40人分焼いてお出しするということがありました。何とか間に合って皆さんに召し上がっていただきましたが。卵を大量に積んでいなかったので、冷や汗をかきました(笑)。急な状況変化には苦労しましたが、腕の見せ所でもありましたね。
―――車掌さんたちも「お客様」だったとか。「ハチクマライス」という賄い飯を提供されていたと聞きます。
乗務のとき、出発前には必ずチーフ車掌のもとへ挨拶に行きます。こちらの乗務員リストを渡したり、指定券の発売状況を確認したりするのですが、お昼の時間帯にかかる場合は食事の注文も取ります。お弁当の方もいますが、必要な方へと3種類準備していました。車内調整弁当と取次弁当、それに「ハチクマライス」です。車内調整弁当は、列車内の厨房で私たちが作るもの。これは、「自社製造」のため半額で提供していました。取次弁当とは、崎陽軒など他社のお弁当を仕入れて私共が販売しているもので定価の2割引。当時、八掛けで仕入れていましたから(笑)。「ハチクマ」は、ご飯の上に目玉焼きやハムエッグを乗せて醤油かソースをかけて食べるものですが、これはかなりの低価格で販売していましたので、給料日前はハチクマの注文が多かったですね(笑)。この名前の由来は、東海道中膝栗毛の主人公、「はっつあん・くまさん」より来ています。新幹線に限らず、ブルートレインの食堂車でも、似たようなものを同じ名前で提供されていたそうです。
―――厨房では水を大量に使うと思うのですが、どのように処理されていたのですか?
循環再利用はできません。汚水はタンクに貯めるのですが、貯蔵スペースには限りがあります。東京・新大阪間が限界です。とはいえ、まさか走行中にまき散らすわけにはいきません。そのため、東京と広島や博多を結ぶ「長距離列車」のために、名古屋駅と岡山駅には、食堂車のある8号車が停車する位置のレール下に排水設備が作られました。上りは名古屋駅で、下りは岡山駅で水を捨てるという算段です。ただし、この設備は名古屋駅に限っては、全ての番線に設けられていませんでした。ダイヤ運用上の「長距離列車」が入る番線のみに設置されていたのです。ただ、ダイヤが乱れた時などに使用番線の変更に伴って排水出来ない事が何回かあり、タンクから汚水が溢れる事にビクビクしながら仕事をした経験がありました。
―――2000年3月で新幹線から食堂車が姿を消しました。それより先に、在来線定期列車の食堂車が廃止されています。また、最近では、各地で車内販売を取りやめる動きもあります。これまでの経験を踏まえ、今、何を思われますか。
2点感じていることがあります。事業として採算が取れないこと。それに、鉄道利用者の動きが変わってきたことです。この2つが絡み合い、そして世の中の大きな変化の結果、このような状況になったと思います。
昔、駅にはキオスクと駅弁売り場しかなかった。それが今は、「エキナカ」事業が強化され、鉄道会社が経営するコンビニができている。飲み物は市中価格で売っていますし、弁当は500円で買えます。わざわざ、「高価」な食堂車やブッフェに立ち寄らないですよねという話です。車内販売のお弁当やドリンクも同じです。
また、新幹線に乗ったら、家族や同僚が揃って食事するという風習めいたものが無くなりました。
それに、鉄道自体が便利になって、乗車時間そのものが短くなっています。日帰り出張で東京に帰るとき、新大阪でビール2本とつまみを買って車内で…というのは今でもありますよね。昔は、浜松あたりでビールが無くなり、車内販売でもう1本買っていましたが、新幹線自体がかなりスピードアップしたので、飲み干すのが小田原あたりになってしまいました(笑)。すぐに着くから、もうお代わりはやめておこうかなとなりますよね。
それでも、弊社が受託した時のように、宣伝目的でやりたいと手を挙げる会社があるかもしれません。ただ、人が確保できるのかどうか。人材不足で悩んでいるこの時代に、かなり厳しい労働環境に人材が集まるかどうか、個人的には疑問です。時代の流れと言ってしまえばそうなのですが、残念という思いと仕方ないかなという思いが交錯しています。
―――貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
車窓から外の景色を眺めながら温かい食事を楽しめる、その場は「観光列車」へと変わりました。しかしながら、その魅力は変わるものではありません。非日常を味わえる機会を愛したファンはきっと多かったはず…。手元のコーヒーを味わいながら、ビュフェでのコーヒーの味と車窓から仰ぐ雄大な富士山の情景を、ほろ苦く、そして無性に懐かしく思い出すひと時となりました。
(参考文献)
「帝国ホテルに働くということ 帝国ホテル労働組合70年史」奥井禮喜著(2016年・ミネルヴァ書房)、「ひかり第24号 列車食堂支部五年のあゆみ」帝国ホテル労働組合列車食堂支部(1977年)、「食堂車バンザイ!」岩成政和著(2016年・イカロス出版)、・「食堂車乗務員物語」宇都宮照信著(2009年・交通新聞社)
SQAURE VOL.186から引用
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